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新・なまず日記


2009-07-27 [月]

_ [] 砂漠の塩



松本清張
1967年
日本


夫を裏切った妻、妻を裏切った夫...幼なじみの二人は、お互いの思慕に気がつかないまま、お互い別の異性を選び、結婚した。だが、結婚生活に愛がないことに気がつくのに時間はかからなかった。いつしか逢瀬を始める二人...容赦ない罪悪感が二人を追い詰める...ついに家庭を捨て、砂漠に旅立つ二人。二人はそこで...というお話

(ネタバレ防止のための改行)






































































なまずの評価 80点

罪だと思う気持ちが罪を生み、しかしその「罪」こそが蜜の味。清張渾身の形而上エロ小説。

泰子と真吉

親同士の仲がよかったばっかりに、いとこのような、冗談を言い合うような付き合いが長すぎて、親しみが愛だと気がつくのが遅すぎた。それぞれ別の伴侶を持ってしまった後に、人生を誤ったことに気づく。砂を噛むような、「諦める」ための作業としての生活...

先に仕掛けたのは真吉だった。そっと連れ出した美術館でのデート。あとは坂を転げ落ちるように気持ちが傾いていく。

そして二人は、お互いの家庭を捨て、砂漠の街、カイロで落ち合う。心中覚悟の逃避行...




ダブル不倫の末、死に向かって真っ逆さま、という構図だけ見れば、例えば渡辺淳一の「失楽園」なんてのと似てることを指摘してもいいだろう。しかし、失楽園と本作が、決定的に違うのは、本作が、愛欲よりもむしろ、「罪悪感」を書くことに集中している点である。

「罪悪感」。2009年の我々から見て、泰子と真吉は、それほど悪いことをしているだろうか?伴侶の選択、つまり結婚にしくじったことを後で気がつくことなど、よくある話ではないか。幸いにして、泰子と真吉には、子供がいない。それだったら、さっさと離婚して、またくっついたら良いだけの話ではないか。そりゃ、泰子の夫、保雄と、真吉の妻、妙子には気の毒だが、しかし、その気もないのに一緒に生活しているより、サッパリと別れちまった方が、お互いにとって建設的ではないか。と、2009年のオレはそう思う。

しかし、1967年に書かれたこの小説では、そうはいかない。特に泰子、キミ、イカンのですよ。非常に。

美術館のデートから逢瀬を始めて、次第に大胆になる二人。しかし泰子は、キスまでは許すのに、アレまでは絶対に許そうとしない。

真吉が彼女にもっと踏み込んだものを求めたのは、男性である上で当然だった。
しかし、泰子は、それだけは許さなかった。保雄の影がいつもうしろにいた。
保雄がもっと悪人ならばいいとさえ思うことがあった。

彼女をそうさせるのもの。それは、彼女の「罪悪感」である。

真吉と逢うようになってから、彼にも告げたのだったが、もうこれ以上、保雄の傍にいることが耐えられなくなった。
それは、≪死んだ≫はずの彼女が、真吉の傍に蘇生したのであった。
同時に、七年の結婚生活の間、ほとんど自分の心に住むことのなかった善良な夫に対する罪悪の覚醒であった。
その贖罪意識が、せめて最後の最後まで真吉を拒絶させつづけてきた。

しかし、体も心もすっかりメロメロ、言ってみりゃフェロモン出まくりの泰子(ちなみに28歳人妻。タマンねぇよな)を前にして、いつも寸止めの真吉としては、これじゃ珍棒が辛抱タマランのも無理はない。これじゃ真吉のパンツは第一チンポ汁でビショビショだ。

砂漠行きは、真吉の生きるのが面倒になったなという一言で始まったのだが、どっちかっていうと、チンポの処理が面倒になったのではないだろうか。日本にいると、泰子はどうしたって、体を開いてくれない。だったら、知っている者が誰もいない、この世の果てだったら...(思う存分、ヤラせてくれるんじゃないだろうか...)。いや、松本清張はそんなこと、どこにも書いてないですよ。でも、このシチュエーションだったら、ねぇ。

つまりですね、砂漠へ心中旅行、なんて物騒なことになったのは、ひょっとしたら、泰子の「罪悪感」からくる、異常な身持ちの硬さが原因だったんじゃないかと。そもそもフったフラれたなんて恋愛にゃぁつきもんなんだし、結婚したって同じこと。とっとと離婚しちまえばいいんだし、それが面倒なんだったら、とりあず不倫でヤってみる、と。いや、すべての男性がそうとはいいませんが、非常に情けないことに、いっぺんヤレば、男って、性格変わるじゃないですか。ねぇ、泰子さん?それでもやっぱり保雄に悪いし...とおっしゃるんだったら、手コキで真吉のを抜いてあげるとかでもいいんですよ。スッキリしたところで今後の身の振り方を考えれば、なにも心中なんてしなくたって、よかったんじゃないかと思うんですよ



しかし、この小説、泰子の「寸止め」が、実にイイ味出してるんですな。まことにエロいことこの上ない。

そのバルコニーで真吉は泰子を腕の中に抱き入れた。
泰子は、彼の強い力に羽交締めにされたようになって、彼の唇を受けた。
受けたというよりも、彼女のほうからもそれを求めた。
(略)
はじめて来た泰子にも、カイロの素晴らしい夜景がここだけに集まっていると分かっていた。
この甘美な背景のなかに真吉の心が燃え立つのは無理はないと知っていた。
「昨夜はよく睡っていない」と、真吉は泰子の耳に熱い息を吐いて言った。
「君が一刻一刻ここに近づいてくるかと思うと、動悸が搏って睡れなかったんだ。(略)」
「それなのに...」と、彼は言った。
「君の気持ちが分からない。君はここまできても、まだ、保雄君の影を背負ってきているのか?」
泰子は彼の胸に顔を押し付けた。
「黙ってないで答えてほしい。こんなところまできて、ぼくを不安にさせないでくれ。
ぼくは何もかも失ってきている。
君の言う次の世界というのは、ここよりほかにないのだよ」
真吉は、泰子の両肩をゆさぶった。
「そして、ぼくは死ぬというのに...」

な、エロいだろ?真吉の珍棒がタイヘンなことになっているのがわかるだろ?オイラの得意な回文で言わせてもらえれば、カイロ、エロいか?って感じかな(なんだそりゃ)。

セックスシーンはほとんどないのに、このエロさ。その根源としての、贖罪意識。「失楽園」には、罪の意識なんて、なかったような気がするなぁ。オイラ、「失楽園」は本は読んでなくて、映画だけなんだけどね。

それは、心中の仕方にも、現れてるよね。本作で、心中の舞台として、砂漠を選ぶのも、贖罪意識からなんだよな。

-死ねば、どこにでも、人が遺体を引きとりにくるだろうね。いやだな。誰にも観られたくないね。
真吉が、そんなことを言うようになった。
泰子は、はっとした。うかつだが、それには気づかなかった。
真吉の傍らで死んでいる自分を夫が見る。そんな残酷なことはできなかった。

ということで、わざわざカイロまで来て、それからさらにイラクまで行って、砂漠の真ん中で死のうとする二人。



一方、「失楽園」の方の心中の仕方は、どうだろう。なんと、薬を使って、おセックスの真っ最中に、つながったまんま死のうってんだから、アキれた話だよな。不倫の相手の傍らで死んでいる自分を夫に見せるのは残酷、なんて話じゃないよ。なにしろ、素っ裸で、チンポがズッポリ入ったまんまの恰好で人に見られるんだぜ。まぁ、検死官の方が一生懸命ハズしてくれるだろうから、そのまんまの恰好を夫に見られるってことはないだろうが、恥ずかしいって感覚はないのかね、こいつら。検死官だって、きっとこう思ったと思うよ...「この、色気違いのバカップルが!いい年こいてなにやってんだよ。余計な仕事させやがって。心中なんてただでさえややこしい仕事なのに...あーあー、もう、ガッチリくわえ込んで抜けねぇじゃねぇかまったく。いーかげんにしろよブツブツ...」なんてね。



つまり、同じ心中モノでも、本作と「失楽園」との間には、途方もない距離があるんだよな。本作では、「罪悪感」こそが、二人を勃め、そして追い詰め、「誰もいない世界(=次の世界)」へ旅立たせる。一方、「失楽園」のバカップルには、まるっきり、「罪悪感」というものがないように思える。あるのは愛欲だけ。ひたすら愛欲を追求し、「愛欲以外がない世界(=交尾のまんま死ぬ)」に旅立つ。

本作が書かれたのは1967年。失楽園が書かれたのは1997年。30年で、日本は一体、なにが変わったか?




もともと、明治初期までの日本人には、少なくとも、庶民レベルでは、夫婦間の貞操の概念は、希薄だったように思える。網野善彦の、「日本の歴史をよみなおす」という本を読んでみよう。そこでは、中世にポルトガルからやってきたルイス・フロイスという宣教師が書いた「日欧文化比較」を「やや誇張しているのではないか」との疑問を挟みながらも、信憑性が高いものであると紹介している。

「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。
日本では意のままにいつでも離別する。
妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。
日本ではしばしば妻が夫を離別する」
というように、これまでの常識から考えると、これは本当かな、と思うようなことをのべているわけです。(P149)
  また日本の女性は、処女の純潔をまったく重んじないとか、娘が親に、
あるいは妻がその夫に全然断らないで、
何日でも好きに自由なところに行けるというのも、本当かなと思いますが、
フロイスより多少遅れてまとめられたスペイン人の神父コリャードの「懺悔録」(岩波文庫)などを見ておりますと、
そのなかに出てくる女性は、懺悔のなかでずいぶん露骨に
多くの男と関係したことを詳しくのべています。(P154)

この本は非常に目からウロコな本なので、興味がある方にはぜひ読んで欲しいんだけど、ちょっと前までの日本では、カナーリ、フリーセックスだったことが書かれている。

少なくとも、西日本ではいわゆる「夜這い」の習俗が、各地に生きていたことは間違いない。
私が実際に岡山の北のほうのある町の方にうかがったところですと、
昭和三十年代まで、私自身もやっておりましたとおっしゃってました。(P154)

いーねー、フリーセクース。で、どうして日本はこんなにフリーだったのか。網野は、彼得意の「無縁」の概念を持ち出して、日本の「神」の「混沌性」によるものだと説明する。

  神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。
(略)そこでは世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、それゆえに、
男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います。(P156)

四季がめまぐるしく変わり、山や海や川や平地などの風景も豊富な日本では、混沌、カオスこそが、神のありようだったのかもしれない。世俗のルールなどは、神の前では混沌(=エネルギーの源)に投げ込まれ、消え失せてしまう。



そんな日本に生まれた泰子が、なぜ夫を裏切ることに、これほどまでの罪悪感を持たねばならないのか。オイラには、明治からこっちの、いわゆる文明開化で入ってきた、西洋文化の教育のせいに思える。脱亜入欧で、アジアの混沌を、「みっともない」と考えた当時の政府は、積極的に西洋文化を取り入れ、教育した。西洋文化の裏側には、西洋の神がついている。西洋の神とは...砂漠の神である。ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、神様はみんな同じ。乾ききって同じ景色が延々と続く土地故に生まれた、唯一絶対の、世俗のルールすべてを規定する、ゆるぎなく、厳しい神。



本小説で、泰子と真吉が、死に場所として、砂漠、しかも西洋の絶対神の故郷ヨルダンに行くのは、極めて象徴的である。彼らの不倫愛を勃め、追いつめ、歓喜と絶望へと追いやった根本「罪悪感」の故郷は、まさにそこだからだ。日本人なんだから、日本の神に、つまり混沌に、身を委ねればよかったのに。わざわざ、西洋の厳粛な神に惹かれ、導かれ、砂漠での死を選ぶ...深読みすれば、松本清張の、現代(といっても1960年代)日本文化批判ということになるんだろうが、本作ではそれはないよね。厳粛な神に恐れおののき、しかし、惹かれてしまう、罰されることを望んでしまう、それこそが、ロマンなんだから。



そういうロマン、「失楽園」にはないように思えるんだけど。1967年から1997年。30年間で、日本はなにが変わったか?変わったんじゃなくて、先祖返りしたんじゃないか、という気がするんだが。脱亜入欧のプレッシャーがなくなり、西洋の神の力が弱まれば、もともとのドスケベ民族の血が騒ぎ、「女はみんな淫乱よ!」いやいやいや、凛子さん、みんなってことは、ないと思うぞ。ま、しかし、愛欲の渦に巻き込まれちまったら、なにをいっても無駄か。愛欲を追求し続け、愛欲の混沌に身を投げる。で、「なんでこいつら交尾してんの?」と、検死官がブツブツ言う、と...



昔の日本人はフリーセクースなんだから、心中なんてなかったんじゃないの?と、思われる向きも居られるかと思うが、いやあ、あったんですな。もともと、心中とは、情死だけのことを言うんじゃなくて、心中立といって、愛の誓いのために、誓約書を血で書いてみたり、髪の毛切ってみたり、刺青してみたり...それだけならまだいいが、指の爪抜いて相手にくれてやったり(いたそぉ)、指切って相手にくれてやったり(いらねぇって)、お互いに刃物で肉を刺したり(貫肉っていう...いやだあ)することだったんだよな。主に江戸時代に、遊廓の遊女と客の間で行われて、大流行しちゃったので、禁止令が出るほどだった。



しかし、こういう心中立が、「罪悪感」からくるとは、ちょっと思えないな。基本、フリーセックスだから。むしろ、フリーすぎて愛欲に面白みが欠けるもんだから、愛欲の増幅装置として、過激な行動に走ったってのが本当のところじゃないだろうか。そういう意味で言えば、「失楽園」の心中は、江戸時代の心中立の延長線上だと言えないだろうか。つまり、先祖帰り。



フリーすぎると、ロマンがない。ロマンがないから退屈してきて、よせばいいのに、過激なことやって愛欲を勃めようとする。その点、「罪悪感」ってのは、ツラい。ツラいんだけど、蜜の味がする。ヤラなくっても、ヤルより気持ちよく、ツラい。ツラさがいい。



本作のラストは、イラン・イラク地質調査隊のレポートという形で語られる。第三者的な目線で記述される二人の運命は...ツラい。ツラすぎる。第三者的語りなので、彼女のツラさは、読者が想像するしかないのだが、想像するのがたまらないほど、ツラい運命だ。やっぱり、砂漠の神は容赦がない。しかし、このツラさこそがロマンであり、深い読後感を与えてくれる。文句なしの名作です。

本日のツッコミ(全7件) [ツッコミを入れる]
_ 遠藤アナゴ (2009-07-31 [金] 23:39)

 推薦図書よんでいただき光栄っす。 <br>すんばらしい読後感想文ですな。失楽園との比較、日本の倫理感覚の推移変化・・・第1チンポ汁の品格はさておき、切れ味のよさに脱毛。非常におもしろいです。85点。 <br> なまず同様、この作品に対するアナゴの評価点は、駆け落ち&心中なんてゆう極めて陳腐な題材を、愛だのエロだのでなく、罪悪感だけで書ききったとこ。姦通で死刑になるイスラムの国を舞台にしたのは、それを際立たせるためだろうし、泰子になかなかヤらせないのも、罪悪感の存在を読者に感じさせるためでしょう。 <br> 推理小説を書いても、犯罪のトリックよりも犯罪者の心理と動機にスポットを当ててきた、清張先生らしい料理さばきが随所に見られる作品なのだ。ラスト、ほんの1日の差で夫に死なれた彼女の気持ちを想像する読者。罪悪感という単語を使わずに表現しきった、小説家としての手腕に脱毛したのです。 <br> ようく考えてみるとね、筋だけでいえばかなりトンデモなのだ。なまずのいうとおり、この場合、子供いないんだし、さっさと離婚して再婚すればよろしい。こんな行動、はた迷惑。旅行業者は責任問われてかわいそうです。交尾死体の失楽園と大きな差はないですな。それに泰子。ヤらせる気もないのにカイロまでいくかね。男にとってはイミフな女。よっぽどの器量よしかカネモでないと、現実には通用せんと思うけどね。主人公らには感情移入できません。まあ時代も違うのかもしれませんが。 <br> しかし。繰り返すが小説としての出来はすばらしい。 <br>最後の第3者視点の記述は、渡辺淳一さん、もしかして真似してないか? <br>  <br>  

_ 遠藤なまず (2009-08-01 [土] 11:58)

アナゴ姉さん、感想文、読んでくれてありがとう。 <br>泰子、確かにイミフなんだけど、それゆえに萌えるよねぇ。タマランよ。 <br>実話ですが、平塚らいてふは、夏目漱石の弟子の森田草平とつきあってたんだって。このときも、らいてふの寸止め攻撃で森田がタイヘンなことになって、そんで心中未遂を起こすんだよ。まったくイミフな話だが、事実は小説より奇なり。それにしても寸止め、すげぇ破壊力(笑) <br>失楽園は本で読んでないが、やっぱりラストは第三者視点になるんだったけか?あー、検死官の? <br>おもしろそうだな。比較のために読んでみようかな。

_ 遠藤アナゴ (2009-08-01 [土] 17:56)

 あ、まだ読んでないのか。非常に恥ずかしながら失楽園は所蔵しております。それもハードカバー。 <br> 警察医平田良介氏の死体検案調書となっておりまして「・・・本人は全裸のまま、相対せる女子と強固に抱擁し、股間まで密着して、陰茎は女子の膣内に挿入されたまま、死後硬直の最も強い時間帯であるため、容易に離し得ず、警官2名にて、ようやく二人を分かつ・・・」てえな具合になってます。平田くんは「がっちりくわえこんで抜けねえじゃねえか、ブツブツ」って絶対ぼやいたと思います。読んでなくてもその想像は正解だと思われます。 <br> まあ、想像以上でもないし以下でもないもんですが、比較としては意味があるかも。良かったらお貸ししますよ。来週に新大阪で会うときでも持参しましょうか? <br> 平塚らいてふ寸止め攻撃は知りませんでしたが、文学や芸術の業界では、その手の姦通はいろいろあったみたいですね。誰が誰と、ってのはあんま興味ないが、寸止め攻撃の破壊力ってのはおもろい。やりまくり凛子も心中だが、やらずに心中のほうがイミフを通り越して味わい深いですな。

_ 遠藤なまず (2009-08-01 [土] 18:21)

「股間まで密着して、陰茎は女子の膣内に...」うはは、そのまんまじゃねぇか。 <br>動員された警官2名もお気の毒です。ぜひ読みたいです貸してください。 <br> <br>蛭子能収がまだギンギンだったころの漫画にそういうのあったな。 <br>乱交パーティーをやってたら肉体がからみあってほどけなくなって、市役所に「ほどいてください」って電話がかかってくるんだよ。で、市役所のグータラ職員は、こんなくだらない仕事は下請けに出そうって電話かけるの。下請けのオジサンは、お役所の仕事が一番固いって言って喜んで現場にいくんだけど、20人くらいの素っ裸の男女がお団子みたいになってて、あまりのヒドさに「まったく、こんな仕事ばっかり回しやがって。でも、これも仕事だ」とか思いながら、「えーと、一番最後にカラんだ方はどなたですか、ヨイショ」とか言って、はずしてくれるの。爽やかにたなびくマヌケ美。

_ 遠藤アナゴ (2009-08-01 [土] 23:54)

 いいねえ蛭子さん。まさしく、爽やかにたなびくマヌケ美。 <br>性交描写にはたくさんの流派でマヌケ美がある。蛭子さんの対極に位置するマヌケ美として片岡義男を推薦したい。 <br> 代表作「彼と彼女とオートバイ」だったと思う。 <br>”・・・・そして僕らは、裸で同じ寝袋に入った。そこで語られた言葉は、IとLOVEとYOUだ” どうよ、このマヌケ美。アナゴはもちろん蛭子式の「一番最後にカラんだ方は・・・」に軍配なんだが。 <br>  <br>

_ 遠藤なまず (2009-08-02 [日] 12:15)

あ、それ、読んだことあるぞ。「彼のオートバイ、彼女の島」じゃなかったか? <br>「彼」は音大生でバイクが好きで、「彼女」は...えーと、実家が「島」...他になにかあったっけ? <br>ストーリーの方は...なんか......ふーん、それで?ってな話だったと思うんだけど...忘れた。 <br> <br>ああ!そうだ、「彼」だったか、「彼」の友達だったかが、卒業作品で作曲をしなくちゃいけなくて、で、その曲ってのがバイクを題材にしてるから、作曲の参考に...バイクに乗りながら、まったく無関係の車のバックミラーを叩き折るんだよ...なんで?(笑) <br>なんかそれがカッコいいことのように書かれていたから、読んでいて不快だったのは憶えてるな。だって、ただメーワクなだけじゃんそんなの。甘えたのバカが人迷惑なことを「カッコイイ...」って思うのはマヌケだけど、この場合、醜悪なだけで、マヌケ美には至らないなぁ。 <br> <br>尾崎豊が、15の夜に、「♪ぬーすんだバイクで走り出すぅ〜」ってのも、まったく人迷惑な話で、バイク盗まれた方の身になってみろって説教したいですよ。ただ、オザキはコソドロのカッコヨサに陶酔しきって、本気で「♪オーウオゥ、オゥオオーウォ〜〜」とイー気持ちで吠えてくれるので、マヌケ美は認めざるを得ませんね。 <br> <br>ああ、「マヌケ美」をテーマに、なんか一本書いてみようかな。

_ 遠藤アナゴ (2009-08-02 [日] 18:52)

 そうそう、「彼のオートバイ 彼女の島」でした。 <br>ストーリーはすっかり忘れた。そんなバックミラーの話があったかね。 <br> いいねえ、マヌケ美大全集。イタリヤ、そこでこそ、ヤリタイ の懺悔室でやっちゃったカップルなんかも上位入賞ですな。 <br>

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