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新・なまず日記


2009-07-06 [月]

_ [xfumble] KDEやxfce4などへの対応



これまで、Fedora8+compiz-fusionという環境で開発とテストをしてきましたが、Make Tokyo Meeting 03に出展するために、デモ用環境を設定していたら、他の環境ではいろいろ問題が出ることがわかりました。

とりあえず、GNOME標準(Metacity)、KDE(KWin)、XFCE(Xfwm)などの環境で発見した問題を対処して、リリースしました。

まったく、ご参考まで、というレベルなんですが、「xfumble:ルール設定」ツールも入ってます。でも、まだ、なんにも設定できない(笑)。現在のルールがどうなってるかをわかりやすく見るのには役に立つ(笑)。


えー、ここでも書いたんですが、xfumbleで、コマンドを入力するためのコマンドパッドが、KwinやMetacityでは、トップに来てくれない、という問題がありまして、「そのウインドウを前に」持ってくるやり方が、どうもわからない。
「うまくいってるアプリのソースを読めばいいや」と思ったんですが、使ってたFedora8のリポジトリ設定が腐っていて、ソースが落ちない。それで、いっそのこと、Ubuntu8.10に入れ替えて、ソース取ってきて読みました。えらい遠回りになりましたが、まぁいいじゃん。

参考にしたのは、GNOMEパネルの、ウインドウピッカーという奴。というよりか、そいつが使ってる、libwnckというライブラリのソース。

わかってしまえば、なんてことはない。_NET_ACTIVE_WINDOWという名前のリクエストを、rootウインドウにclient_messageで送ればいい。
ここに書いてあるとおり、
_NET_ACTIVE_WINDOW
  window  = window to activate
  message_type = _NET_ACTIVE_WINDOW
  format = 32
  data.l[0] = source indication 
  data.l[1] = timestamp
  data.l[2] = requestor's currently active window, 0 if none
  other data.l[] elements = 0
こんな感じ。"source indication"は、2を指定すると、ウインドウマネージャが言うことを聞くようになる。"timestamp"は、0で大丈夫みたい。"requestor's currently active window"も、0でうまくいってるな。
上記のドキュメントは、ICCCMという規格の拡張規格。ICCCMってのは、「だれも守らない規約マニュアル」なんてヘンなアダナがついてるんだけど、とりあえず、_NET_ACTIVE_WINDOWに関しては、KWin、Metacity、Xfwm、compiz、みんな、守ってくれてるみたいだ。




2009-07-13 [月]

_ [linux] Fedora8からUbuntu8.10へ



これまで使っていたFedora8から、Ubuntu8.10に環境を移行したので、その時の作業メモを、残しときます。

Fedora8の時に使っていたホームディレクトリをコピーしておき、Ubuntu8.10を入れた後に、Ubuntuにそっくりコピーして、設定が引き継がれないものを調整する、というやり方です。

FedoraかUbuntuか、というよりは、単に個別のソフトのバージョンの問題で、細かな設定が変わった、という話だけだったかもしれません。しかし、面倒なので、詳細は調べてません。

  • シェル環境
    Fedora8の時は、.bash_profileというファイルをホームに置いていたが、Ubuntu8.10になって、それがなくなって、代わりに.profileというファイルを置くこととなった。意味は同じようなので、単にコピーしてみたが、うまくいかない。.bash_profileの冒頭の下記の記述を削除して.profileにしたら、うまくいった。
    # Get the aliases and functions
    if [ -f ~/.bashrc ]; then
    	. ~/.bashrc
    fi
    
  • firefox
    なにもしないで、完全に設定を引き継げた。ただ、Flashで音を鳴らすために、下記のパッケージをインストール。
    sudo apt-get flushplugin-nonfree
    
    これでFlash10が入ったそうで、pulseaudioで音を鳴らせる。
  • Thunderbird
    「アプリの追加」から、mozilla Thunderbirdを指定し、インストール後、起動...設定が引き継げない...と思ったのだが、Fedoraでは、~/.thunderbirdにあった設定ファイルが、Ubuntuでは、~/.mozilla-thunderbirdに置くようだ。Fedoraの~/.thunderbird以下すべてを、~/mozilla-thunderbirdにコピーしたら、完全に設定を引き継げた。
  • compiz-fusion
    なにもしなくても、完全に設定を引き継げた
  • emacs(xft版、version23)
    オイラ、Fedora8の頃から、emacsは、現在開発中の、version23というのを使っている。こいつは、Xの古典的フォントではなく、アンチエイリアシングが効くxftフォントを使用するので、非常に字が滑らかであり、これでなくちゃ我慢がならない。
    Fedora8の時は、emacsの本家のcvsサーバにアクセスして、開発中のソースをダウンロードして、苦労してコンパイルして使っていたんだが、Ubuntuになったら、なんと開発途中版なのに、パッケージになっていてビックリした。
    sudo apt-get install emacs-snapshot
    
    これでおしまい。すげぇ簡単。

    かな漢は、uimを使ってanthyとのブリッジになってもらうので、
    sudo apt-get install uim-anthy uim-el
    
    これで、必要なパッケージを揃えてくれた、はず。
    で、.emacsの中で、オイラの場合、こんな感じ。
    (load-library "uim")
    (setq uim-default-im-engine "anthy")
    (setq uim-default-im-prop '("action_anthy_hiragana" "action_anthy_roma"))
    ;uimモードの時は、カーソルの色を変える
    (defun toggle-uim-mode-with-cursor-color ()
      (interactive)
      (if uim-mode (set-cursor-color "black")(set-cursor-color "darkseagreen2"))
      (uim-mode)
    )
    (global-set-key [(control ?\ )] 'toggle-uim-mode-with-cursor-color)
    ;候補表示をインラインで
    (setq uim-candidate-display-inline t)
    
    上記で、Ctrl-spaceで、かな漢起動。SCIMとかち合うといけないので、下記のようなシェルスクリプトで起動してる。
    #!/bin/sh
    XMODIFIERS=@im=none
    emacs-snapshot --no-splash -geometry 80x50+32-10 $1
    
  • amarok
    Fedora8の時は、曲のデータベース管理を、postgresqlを使ってやっていた。そこで、Ubuntuでもpostgresqlを使って、Fedora8の時に溜め込んだ、曲の「評価」やら「スコア」やらを引き継ぐ。
    まず、Fedora8で、
    pg_dump amarokcollection > amarok.db
    
    この、amarok.dbを、Ubuntuで、
    psql amarokcollection < amarok.db
    
    これで、「評価」やらを引き継げた。

2009-07-14 [火]

_ [その他] 鼻血



今朝、顔を洗ってタオルで拭いたら、ひゃー、タオルがまっかっかだ!

昨日の朝も、まったく同じ要領でタオルが真っ赤。これが多い日って奴だろうか。皆さん、多い日も安心ですか?オイラは不安ですね。

あ、先週は会社でも出た。特許のライセンス料の話をしてて、うわー、こいつはエゲツなく儲かりますね、といったら鼻血。まるで谷岡ヤスジのマンガ。

しょこたんの理想の男性は、ブルースリー似で、どっか怪我して血が流れてる人なんだそうだけど、鼻血じゃだめかね?鼻血。アチョーとかホワーッとか言って、タラーっと、鼻血。カッコいいじゃん、鼻血。

特許のライセンス交渉って、「怒り役」ってのを決めとくんだってさ。もちろん、芝居なんだけどね。「弊社はこのような条件では到底承服しかねます!」とか言って大ギレして、それを周りでなだめるフリして、そっから交渉するっていう。議論が膠着してきたら、またキレて。相手がウンザリしてきたら、バタバタっと料率決めちゃう。まあ、ちょっとでも金がもうかるんだったら、なんでもやるんだよサラリーマンは。

そういうとき、鼻血っていいと思わない?顔やらワイシャツやら血だらけでさ、もう、特許の明細書にもボタボタ血がついちゃって、それをブンブン振り回して、「いいですか!御社のxxxが弊社の権利を侵害していることは明白でありまして!」なんて言ったら、御社ビビるよなあ。そういうのいっぺん、やってみたいなぁ。

で、うまくいったら、鼻血課長とか言われたりして。で、若い奴に、鼻血のひとつも出せないでどうする!とか説教して、嫌がられると。出せるかそんなもん。



※7/17追記
ひゃー、今日も出た出た鼻血でた。

同僚のカワイコちゃんと楽しくおしゃべりしながら出社して、居室に入った、と思ったとたん、あ、あ、タラっと来たぁ〜〜〜っ!
これじゃ精力絶倫の狒々爺みたいじゃないか。いくらなんでもドン引きだ。
ちょっと、いくらなんでも鼻血出すぎ。ちょっとお医者さん行って来るよ


んで、耳鼻科に行ったら、鼻の穴のぞいて、「悪い傷じゃないけど、一応、硝酸銀で焼いとくから」だって。根性焼きじゃないんだからさ。
で、お医者がオゴソカに言うわけだ。「ちょっとチクチクするかもしれないし、飛び上がるほど痛いかもしれない...」ってどっちやねん!
覚悟を決めて、腕組みして、「よし、やってくれ!」看護婦さんがクスクス笑う中、医者がニヤリと笑って、チョイ、と...ふむ、ジンワリと痛いが、大したことないな...「いまジワってきてるでしょ?これからお水かけるから。これからが本番」なんだよそれ!...あ、キタキタ、ズーンと来た!ツスーーーッ!キイタァ〜〜〜〜ッ!ハヒハヒ、ハヒハヒ...


いやぁ、痛かったけど、いかにもキィタァって感じがして、結構よかったよ。

ところで、会社の同僚に、「鼻血っていったら谷岡ヤスジだよな」っていったら、知らねぇって言うんだよな。しょうがねぇなぁ。

ヤスジのオラオラ節

これでも見て勉強してくれ。♪ドバドバブー、鼻血がブー、ドバドバドバドバ鼻血がブー

2009-07-26 [日]

_ [xfumble] ルール設定ツール作成中



ごぶさたしてますが、鼻血も止まったんで、がんばってますよ! ルール設定ツール編集機能 ルール設定ツールの、「ルール一覧」ペインの、編集機能が大体できた。

2009-07-27 [月]

_ [] 砂漠の塩



松本清張
1967年
日本


夫を裏切った妻、妻を裏切った夫...幼なじみの二人は、お互いの思慕に気がつかないまま、お互い別の異性を選び、結婚した。だが、結婚生活に愛がないことに気がつくのに時間はかからなかった。いつしか逢瀬を始める二人...容赦ない罪悪感が二人を追い詰める...ついに家庭を捨て、砂漠に旅立つ二人。二人はそこで...というお話

(ネタバレ防止のための改行)






































































なまずの評価 80点

罪だと思う気持ちが罪を生み、しかしその「罪」こそが蜜の味。清張渾身の形而上エロ小説。

泰子と真吉

親同士の仲がよかったばっかりに、いとこのような、冗談を言い合うような付き合いが長すぎて、親しみが愛だと気がつくのが遅すぎた。それぞれ別の伴侶を持ってしまった後に、人生を誤ったことに気づく。砂を噛むような、「諦める」ための作業としての生活...

先に仕掛けたのは真吉だった。そっと連れ出した美術館でのデート。あとは坂を転げ落ちるように気持ちが傾いていく。

そして二人は、お互いの家庭を捨て、砂漠の街、カイロで落ち合う。心中覚悟の逃避行...




ダブル不倫の末、死に向かって真っ逆さま、という構図だけ見れば、例えば渡辺淳一の「失楽園」なんてのと似てることを指摘してもいいだろう。しかし、失楽園と本作が、決定的に違うのは、本作が、愛欲よりもむしろ、「罪悪感」を書くことに集中している点である。

「罪悪感」。2009年の我々から見て、泰子と真吉は、それほど悪いことをしているだろうか?伴侶の選択、つまり結婚にしくじったことを後で気がつくことなど、よくある話ではないか。幸いにして、泰子と真吉には、子供がいない。それだったら、さっさと離婚して、またくっついたら良いだけの話ではないか。そりゃ、泰子の夫、保雄と、真吉の妻、妙子には気の毒だが、しかし、その気もないのに一緒に生活しているより、サッパリと別れちまった方が、お互いにとって建設的ではないか。と、2009年のオレはそう思う。

しかし、1967年に書かれたこの小説では、そうはいかない。特に泰子、キミ、イカンのですよ。非常に。

美術館のデートから逢瀬を始めて、次第に大胆になる二人。しかし泰子は、キスまでは許すのに、アレまでは絶対に許そうとしない。

真吉が彼女にもっと踏み込んだものを求めたのは、男性である上で当然だった。
しかし、泰子は、それだけは許さなかった。保雄の影がいつもうしろにいた。
保雄がもっと悪人ならばいいとさえ思うことがあった。

彼女をそうさせるのもの。それは、彼女の「罪悪感」である。

真吉と逢うようになってから、彼にも告げたのだったが、もうこれ以上、保雄の傍にいることが耐えられなくなった。
それは、≪死んだ≫はずの彼女が、真吉の傍に蘇生したのであった。
同時に、七年の結婚生活の間、ほとんど自分の心に住むことのなかった善良な夫に対する罪悪の覚醒であった。
その贖罪意識が、せめて最後の最後まで真吉を拒絶させつづけてきた。

しかし、体も心もすっかりメロメロ、言ってみりゃフェロモン出まくりの泰子(ちなみに28歳人妻。タマンねぇよな)を前にして、いつも寸止めの真吉としては、これじゃ珍棒が辛抱タマランのも無理はない。これじゃ真吉のパンツは第一チンポ汁でビショビショだ。

砂漠行きは、真吉の生きるのが面倒になったなという一言で始まったのだが、どっちかっていうと、チンポの処理が面倒になったのではないだろうか。日本にいると、泰子はどうしたって、体を開いてくれない。だったら、知っている者が誰もいない、この世の果てだったら...(思う存分、ヤラせてくれるんじゃないだろうか...)。いや、松本清張はそんなこと、どこにも書いてないですよ。でも、このシチュエーションだったら、ねぇ。

つまりですね、砂漠へ心中旅行、なんて物騒なことになったのは、ひょっとしたら、泰子の「罪悪感」からくる、異常な身持ちの硬さが原因だったんじゃないかと。そもそもフったフラれたなんて恋愛にゃぁつきもんなんだし、結婚したって同じこと。とっとと離婚しちまえばいいんだし、それが面倒なんだったら、とりあず不倫でヤってみる、と。いや、すべての男性がそうとはいいませんが、非常に情けないことに、いっぺんヤレば、男って、性格変わるじゃないですか。ねぇ、泰子さん?それでもやっぱり保雄に悪いし...とおっしゃるんだったら、手コキで真吉のを抜いてあげるとかでもいいんですよ。スッキリしたところで今後の身の振り方を考えれば、なにも心中なんてしなくたって、よかったんじゃないかと思うんですよ



しかし、この小説、泰子の「寸止め」が、実にイイ味出してるんですな。まことにエロいことこの上ない。

そのバルコニーで真吉は泰子を腕の中に抱き入れた。
泰子は、彼の強い力に羽交締めにされたようになって、彼の唇を受けた。
受けたというよりも、彼女のほうからもそれを求めた。
(略)
はじめて来た泰子にも、カイロの素晴らしい夜景がここだけに集まっていると分かっていた。
この甘美な背景のなかに真吉の心が燃え立つのは無理はないと知っていた。
「昨夜はよく睡っていない」と、真吉は泰子の耳に熱い息を吐いて言った。
「君が一刻一刻ここに近づいてくるかと思うと、動悸が搏って睡れなかったんだ。(略)」
「それなのに...」と、彼は言った。
「君の気持ちが分からない。君はここまできても、まだ、保雄君の影を背負ってきているのか?」
泰子は彼の胸に顔を押し付けた。
「黙ってないで答えてほしい。こんなところまできて、ぼくを不安にさせないでくれ。
ぼくは何もかも失ってきている。
君の言う次の世界というのは、ここよりほかにないのだよ」
真吉は、泰子の両肩をゆさぶった。
「そして、ぼくは死ぬというのに...」

な、エロいだろ?真吉の珍棒がタイヘンなことになっているのがわかるだろ?オイラの得意な回文で言わせてもらえれば、カイロ、エロいか?って感じかな(なんだそりゃ)。

セックスシーンはほとんどないのに、このエロさ。その根源としての、贖罪意識。「失楽園」には、罪の意識なんて、なかったような気がするなぁ。オイラ、「失楽園」は本は読んでなくて、映画だけなんだけどね。

それは、心中の仕方にも、現れてるよね。本作で、心中の舞台として、砂漠を選ぶのも、贖罪意識からなんだよな。

-死ねば、どこにでも、人が遺体を引きとりにくるだろうね。いやだな。誰にも観られたくないね。
真吉が、そんなことを言うようになった。
泰子は、はっとした。うかつだが、それには気づかなかった。
真吉の傍らで死んでいる自分を夫が見る。そんな残酷なことはできなかった。

ということで、わざわざカイロまで来て、それからさらにイラクまで行って、砂漠の真ん中で死のうとする二人。



一方、「失楽園」の方の心中の仕方は、どうだろう。なんと、薬を使って、おセックスの真っ最中に、つながったまんま死のうってんだから、アキれた話だよな。不倫の相手の傍らで死んでいる自分を夫に見せるのは残酷、なんて話じゃないよ。なにしろ、素っ裸で、チンポがズッポリ入ったまんまの恰好で人に見られるんだぜ。まぁ、検死官の方が一生懸命ハズしてくれるだろうから、そのまんまの恰好を夫に見られるってことはないだろうが、恥ずかしいって感覚はないのかね、こいつら。検死官だって、きっとこう思ったと思うよ...「この、色気違いのバカップルが!いい年こいてなにやってんだよ。余計な仕事させやがって。心中なんてただでさえややこしい仕事なのに...あーあー、もう、ガッチリくわえ込んで抜けねぇじゃねぇかまったく。いーかげんにしろよブツブツ...」なんてね。



つまり、同じ心中モノでも、本作と「失楽園」との間には、途方もない距離があるんだよな。本作では、「罪悪感」こそが、二人を勃め、そして追い詰め、「誰もいない世界(=次の世界)」へ旅立たせる。一方、「失楽園」のバカップルには、まるっきり、「罪悪感」というものがないように思える。あるのは愛欲だけ。ひたすら愛欲を追求し、「愛欲以外がない世界(=交尾のまんま死ぬ)」に旅立つ。

本作が書かれたのは1967年。失楽園が書かれたのは1997年。30年で、日本は一体、なにが変わったか?




もともと、明治初期までの日本人には、少なくとも、庶民レベルでは、夫婦間の貞操の概念は、希薄だったように思える。網野善彦の、「日本の歴史をよみなおす」という本を読んでみよう。そこでは、中世にポルトガルからやってきたルイス・フロイスという宣教師が書いた「日欧文化比較」を「やや誇張しているのではないか」との疑問を挟みながらも、信憑性が高いものであると紹介している。

「ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。
日本では意のままにいつでも離別する。
妻はそのことによって名誉を失わないし、また結婚もできる。
日本ではしばしば妻が夫を離別する」
というように、これまでの常識から考えると、これは本当かな、と思うようなことをのべているわけです。(P149)
  また日本の女性は、処女の純潔をまったく重んじないとか、娘が親に、
あるいは妻がその夫に全然断らないで、
何日でも好きに自由なところに行けるというのも、本当かなと思いますが、
フロイスより多少遅れてまとめられたスペイン人の神父コリャードの「懺悔録」(岩波文庫)などを見ておりますと、
そのなかに出てくる女性は、懺悔のなかでずいぶん露骨に
多くの男と関係したことを詳しくのべています。(P154)

この本は非常に目からウロコな本なので、興味がある方にはぜひ読んで欲しいんだけど、ちょっと前までの日本では、カナーリ、フリーセックスだったことが書かれている。

少なくとも、西日本ではいわゆる「夜這い」の習俗が、各地に生きていたことは間違いない。
私が実際に岡山の北のほうのある町の方にうかがったところですと、
昭和三十年代まで、私自身もやっておりましたとおっしゃってました。(P154)

いーねー、フリーセクース。で、どうして日本はこんなにフリーだったのか。網野は、彼得意の「無縁」の概念を持ち出して、日本の「神」の「混沌性」によるものだと説明する。

  神前や仏前は神仏の力のおよぶ場所であり、そこでは世俗の縁が切れる。
(略)そこでは世俗の妻や夫の関係は持ち込まれない場所であり、それゆえに、
男女が自由に交渉することができたと考えても、決しておかしくないのではないかと思います。(P156)

四季がめまぐるしく変わり、山や海や川や平地などの風景も豊富な日本では、混沌、カオスこそが、神のありようだったのかもしれない。世俗のルールなどは、神の前では混沌(=エネルギーの源)に投げ込まれ、消え失せてしまう。



そんな日本に生まれた泰子が、なぜ夫を裏切ることに、これほどまでの罪悪感を持たねばならないのか。オイラには、明治からこっちの、いわゆる文明開化で入ってきた、西洋文化の教育のせいに思える。脱亜入欧で、アジアの混沌を、「みっともない」と考えた当時の政府は、積極的に西洋文化を取り入れ、教育した。西洋文化の裏側には、西洋の神がついている。西洋の神とは...砂漠の神である。ユダヤ教もイスラム教もキリスト教も、神様はみんな同じ。乾ききって同じ景色が延々と続く土地故に生まれた、唯一絶対の、世俗のルールすべてを規定する、ゆるぎなく、厳しい神。



本小説で、泰子と真吉が、死に場所として、砂漠、しかも西洋の絶対神の故郷ヨルダンに行くのは、極めて象徴的である。彼らの不倫愛を勃め、追いつめ、歓喜と絶望へと追いやった根本「罪悪感」の故郷は、まさにそこだからだ。日本人なんだから、日本の神に、つまり混沌に、身を委ねればよかったのに。わざわざ、西洋の厳粛な神に惹かれ、導かれ、砂漠での死を選ぶ...深読みすれば、松本清張の、現代(といっても1960年代)日本文化批判ということになるんだろうが、本作ではそれはないよね。厳粛な神に恐れおののき、しかし、惹かれてしまう、罰されることを望んでしまう、それこそが、ロマンなんだから。



そういうロマン、「失楽園」にはないように思えるんだけど。1967年から1997年。30年間で、日本はなにが変わったか?変わったんじゃなくて、先祖返りしたんじゃないか、という気がするんだが。脱亜入欧のプレッシャーがなくなり、西洋の神の力が弱まれば、もともとのドスケベ民族の血が騒ぎ、「女はみんな淫乱よ!」いやいやいや、凛子さん、みんなってことは、ないと思うぞ。ま、しかし、愛欲の渦に巻き込まれちまったら、なにをいっても無駄か。愛欲を追求し続け、愛欲の混沌に身を投げる。で、「なんでこいつら交尾してんの?」と、検死官がブツブツ言う、と...



昔の日本人はフリーセクースなんだから、心中なんてなかったんじゃないの?と、思われる向きも居られるかと思うが、いやあ、あったんですな。もともと、心中とは、情死だけのことを言うんじゃなくて、心中立といって、愛の誓いのために、誓約書を血で書いてみたり、髪の毛切ってみたり、刺青してみたり...それだけならまだいいが、指の爪抜いて相手にくれてやったり(いたそぉ)、指切って相手にくれてやったり(いらねぇって)、お互いに刃物で肉を刺したり(貫肉っていう...いやだあ)することだったんだよな。主に江戸時代に、遊廓の遊女と客の間で行われて、大流行しちゃったので、禁止令が出るほどだった。



しかし、こういう心中立が、「罪悪感」からくるとは、ちょっと思えないな。基本、フリーセックスだから。むしろ、フリーすぎて愛欲に面白みが欠けるもんだから、愛欲の増幅装置として、過激な行動に走ったってのが本当のところじゃないだろうか。そういう意味で言えば、「失楽園」の心中は、江戸時代の心中立の延長線上だと言えないだろうか。つまり、先祖帰り。



フリーすぎると、ロマンがない。ロマンがないから退屈してきて、よせばいいのに、過激なことやって愛欲を勃めようとする。その点、「罪悪感」ってのは、ツラい。ツラいんだけど、蜜の味がする。ヤラなくっても、ヤルより気持ちよく、ツラい。ツラさがいい。



本作のラストは、イラン・イラク地質調査隊のレポートという形で語られる。第三者的な目線で記述される二人の運命は...ツラい。ツラすぎる。第三者的語りなので、彼女のツラさは、読者が想像するしかないのだが、想像するのがたまらないほど、ツラい運命だ。やっぱり、砂漠の神は容赦がない。しかし、このツラさこそがロマンであり、深い読後感を与えてくれる。文句なしの名作です。

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Before...

_ 遠藤アナゴ [ いいねえ蛭子さん。まさしく、爽やかにたなびくマヌケ美。 性交描写にはたくさんの流派でマヌケ美がある。蛭子さんの対..]

_ 遠藤なまず [あ、それ、読んだことあるぞ。「彼のオートバイ、彼女の島」じゃなかったか? 「彼」は音大生でバイクが好きで、「彼女」..]

_ 遠藤アナゴ [ そうそう、「彼のオートバイ 彼女の島」でした。 ストーリーはすっかり忘れた。そんなバックミラーの話があったかね。..]