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新・なまず日記


2006-08-30 [水]

_ [映画]ALWAYS 三丁目の夕日



山崎貴
2005年
日本

時は高度経済成長の兆しが見え始めた昭和30年代、建設中の東京タワーを望む3丁目の鈴木オートに、集団就職で青森から出てきた女の子が住み込みで働き始めたが....というお話。

(ネタバレ防止のための改行)






































































なまずの評価 20点

つまらないギャグ、フォーマット通りの感動、マーケティング戦略で決まったテーマ...映画商売お疲れさま。いってみればゴミ映画。

西岸良平先生のロングセラーマンガ「三丁目の夕日」の映画化です。なまずはこの原作のマンガが大好きで、たとえば、映画の冒頭、茶川先生の駄菓子屋で、子供がクジを引いてスカばっかり出るというエピソードは、ああ、コミックス第3巻の「スカスカ人生」だったな、とわかるくらいに読み込んでおります。原作がどう映画として料理されるか、というのは、原作ファンとしては非常に興味があるところで、その辺も楽しみにしながら見始めたわけです。

原作のマンガは、昭和30年代の風俗習慣を描写する点に特長があるのですが、この点について、本映画は、驚異的なまでの再現度を誇っております。巨大なオープンセットを組んだのか、はたまたCG技術の賜物か、資料映像かと思うほどのリアリティある光景が映し出されます。なまずは昭和40年代生まれなのでこの時代の記憶はありませんが、一世代上の方たちにとっては、感動ものの映像ではないでしょうか。

原作のマンガの方は、時には注釈をいれてまで昔の習俗を説明しますが、絵の書き込みという点に関しては、エッセイマンガ風のあっさりしたものとなっており、ビジュアルとしての説得力に乏しく、その点は脳内でイメージ補完をするお約束になっていました。しかし、本映画は、「これでもか」とでも言わんばかりの圧倒的な映像の説得力を誇っており、この点については、映画は原作を越えたといっても過言ではないでしょう。

しかし!しかしですよ、 評価できるのは、まったくそれだけです。あとは残念ながら、どうにも評価しようもないクズ映画。なんですかこの砂糖をまぶしたようなわざとらしい演出は。これで泣かせて金を取ろうというのなら、あまりに観客をバカにしている。

確かに原作マンガにも、お涙頂戴の人情話はあります。しかし、そもそもがデフォルメされた絵柄のマンガであり、その演出はごくあっさりしたものです。なにか、西岸先生には、人情話に浸りきるのを恥じるような感覚がある。さらに、西岸先生は、人間を客観的に突き放して見るようなところがあり、時に人の業をさらけ出すような苦いストーリーも書く人です。単に甘い話だけではない、人のダメさマヌケさもしっかり書くからこそ、人情話が感動を呼ぶのです。抑制をきかせた巧みな演出で自然な感動を与える、そんな作風だからこそ、ロングセラーを続けてこれたのだと思います。

たとえば原作では、売れない小説家で、執筆の傍ら駄菓子屋をやっている茶川(ちゃがわ)先生は、すでに初老の男。茶川に恋文の代筆を頼む奔放なアバズレ女ヒロミとは親子ほどの年の差があり、そもそも恋愛の対象外。しかしヒロミはブスだが気のおけない女で茶川先生に無防備な姿をさらすもんだから、茶川先生は恋愛感情はともかくとして、初老の身でありながらとりあえず欲情してしまう。そういうどうしようもなく情けない男の業を自覚しつつも、茶川先生は、娘のようなヒロミと、ヒロミが連れてきた父親不明の淳之介と一緒に、おかしな家族としてやっていくのも悪くないかな、と思うのです。すでに初老の身よりのない孤独な生活だからこそ、血の繋がりがなくても疑似家族のぬくもりを求める、こんなペーソスが、原作の魅力の一つなのです。

一方映画の方は、ヒロミに、今をときめく美人女優の 小雪を持ってきました。一応、自分のことを「アバズレ」などと言うセリフはあるのですが、輝くばかりのその魅力は、ぜんぜんアバズレには見えない。さらに、ヒロミとのラブロマンスを成立させるために、茶川先生は、まだ中年(青年?)の文学くずれになってしまいました。原作の、初老の男故の孤独感からくる偏屈さ、という自然なキャラクター設計は通用しなくなってしまい、 吉岡秀隆の必死の演技を持ってしても、性格の破綻した気持ち悪い文学オタクという特殊なキャラクタになってしまいました。さらに、茶川が特殊になったものだから、その対抗キャラとして、鈴木オート社長は、異常に暴力的な粗暴で特殊な男になってしまいました。原作では、家族思いのごく普通のお父さんだったのに。昭和30年代のどこにでもいた普通の人々のペーソスという原作の主題は、映画では完全に破綻することとなってしまいました。だって、キャラがぜんぜん普通の人じゃないんだもん。

主要キャラが特殊になったおかげで、その行動はマンガチックなドタバタとなり、ここで笑えと言わんばかりのわざとらしいギャグが連発されます。さらに特殊なキャラで人情話を作るために、やたらと過剰な演出、典型的には感動的な音楽が鳴りっぱなし、という状態となります。このあたりで、もはや映画を観ているという気分ではなくなり、テレビの安っぽい二時間ドラマ、といった感じになってくる。うんざりです。

映画の一番の盛り上がりは、淳之介の本当の父親が見つかって、一度は茶川の前からいなくなるものの、淳之介は父親から逃げて帰ってきて茶川と再会する、というシーンですが、 このシーンのわざとらしさ、演出の下品さは、本当に胸くそが悪くなるほど気持ちが悪い。原作での同様のエピソードはコミックス16巻の「朝顔」ですが、こちらの方は再会シーンは2、3コマしか使わないごくあっさりしたものにとどめ、代わりに、淳之介がいなくなった時の茶川の空虚感を、淳之介が育てていた朝顔がしおれたことで表現するという、抑制のきいた演出を行います。この渋い演出があるからこそ、人情話といえども、大人の鑑賞に耐える優秀なマンガとなるのであり、それこそが「三丁目の夕日」の大きな特長の一つであるのに、映画では、そこのところが全くわかっていない。

そりゃ、ヒロインがブスでロマンスもなかったり、クライマックスに泣けなかったら、映画の売り上げが落ちる、と考えるのも無理もありませんが、原作にはない構造を持ち込むことの危険性を十分考慮すべきでした。恐らく、定年退職を迎える団塊の世代のみなさんのノスタルジーに訴える映画を作って一儲け、という、マーケティングの都合で、「三丁目の夕日」を取り上げることになったのでしょう。しかし、原作は映画にするにしては比較的地味だし、人間の業をさらけだすような作風は、ノスタルジーに浸りきるには不向き。そこで、原作から「苦み」を抜いて、ロマンスとお涙頂戴のお砂糖をまぶしていっちょ上がり、というのが本作品の結末。そのために原作の良さが台無しになってもいっこうにかまわないのでしょう。原作への愛も映画への愛も全く感じられない。映画会社の「経営戦略会議」の内容が透けて見えるかのようだ。つまり、観客はナメラれてるんですよ。「こういうふうにすれば客は泣くんですよ」なんて具合に。そりゃあ、映画だってビジネスですからね。開発費が回収できなければ次はないんだから、最大公約数的な「感動作」を作らなければならないって事情もわかりますけどね。でも、ここまであざとくやられたら、ドッチラケだぜ。テレビじゃないんだから、もうちょっと監督の作家性、芸術性って奴を出してもらわないと。ということで、とりあえずこいつは最低のゴミ映画。現時点ではなんの評価もできません。あと10年くらいたったら、「うわぁ、こいつはあざとい」と、トンデモ映画として、逆の意味で評価できる様になるかもしれませんが*1




*1「なまず日記」では、20点未満は「トンデモ映画」枠で、この枠の映画は、なんてヒドいんだ、ヒドすぎておもしれぇ〜と、そういう意味でホメてるんですよ。クローン人間ブルースリーとかね。だから、本映画の20点というのは、ヒドすぎることがオモシロイとも思えない、最低のゴミ映画ってことです。でも、月日が立つと、初見に感じた怒りが、いい思い出に熟成されて、ヒドさがオモシロクなってくるかもしれない。そうなったら、15点とかつけて、「トンデモ映画」枠にいれようと思います。
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